昭和五十一年一月十二日 朝の御理解
御理解 第五十一節 天地の間に住む人間は神の氏子。身の上に痛み病気あっては、家業 できがたし。身の上安全を願い、家業出精、五穀成就、牛馬にいたるまで、氏子身の上 のこと何なりとも、実意をもって願え。
金光様の御信心を段々頂いて参っておりますと、心から願わなければおれないことばっかり。私は本当にどういう事にでも願わせて頂くことのできれる人ほど、まあいうなら信心が出来たというのではないでしょうか。なぜというて、ここんとこは頼まんでも、ここんところは自分でするというのですからね。頼まんという事は。だからもう本当にです、これはもうそれこそ願わなければおられない。心情が育ってくるというか、それが密になってくる。そりゃ、本当に願わなければおられませんです。
もうちょいとそこまで行ってきます、という様なことでもです。もう簡単に言うけれども、ちょっと久留米まで行って来ますからお願いしますと、言う人達があります。やっぱりお取次ぎさして頂く時に、やはり怪我、あやまちの無い様に祈らなければ。本人はまあ簡単であっても、取り次ぐ者としてはそのくらい、やっぱり簡単に願えば簡単に願うほど、それを願わなければおられない。
昨日、もう四時の御祈念に入られねばならんという時にだったでしょうか。北野の上滝さん達が一家五人連れで参ってまいりました。昨日、ちょうど泉さんが会社が休みだからというので、まあ正月から初めてお礼に出て来たわけです。
それで、何か帰りに久留米に回るはずだったらしいですけども、その事はもちろん願ってはありません。願ってはありませんけども、また帰りは無事におかげ頂かんならんからねと言うて用心して帰らにゃと、言うてまあそのことをお願いさして頂きましたら、後から一時間ばっかりして電話がかかってきたのが、久留米さん回っとります。広大なおかげ頂きましたと言うて電話が掛かって来たんです。それが、停まっておるのに横から来た車が、まあとにかく車は全然動かん様になったそうですが、クリッとこう回る、反対に回る様な勢いだったそうです。おかげでまあ、総一郎さんという息子がおりますが、それがまあちょこっとまあ怪我という程ではないけども、怪我をしただけで無事で、それで車はそげなふうで動きませんから、誰々さんに送ってもらって今帰りましたと。と言うてお礼お届けがありました。
これはやはりあの、本当にお参りどもしとらんとどげな災難じゃわからんと、まあ思うがわけでございましょうけれども、子供達にいたるまで一人一人が「親先生、ありがとうございました」と言うて電話の向こうで一人一人がお礼を申しておりましたが、本当に私があん時にお願いをしたという事はおかげ頂いた。久留米行くという事は聞かなかったけれども帰りがけの事をお願いした事は、やっぱりお願いせにゃおられんな。もう、こりゃいっつもそれを思います。
昨日、東京からわざわざお礼に出てきました。一昨日電話が掛かって参りまして、嫁さんが、お父さんが亡くなる時の病状とひとっつも変わらんで出血がはじまって、初めの間はただお母さんが東京へ行ってすぐ電話かけて来た。そして、ちょっとおかげ頂いたかに見えたけれど、もう次にはもう医者が匙を投げて、「もう難しか」と言うぐらいになった。そん時にまたお母さんから電話がかかって来ました。
わざわざ東京からお礼に出て来るぐらいですから、もう本当にもう医者が申しましたて、人間のこの生命というのの不可思議さに医者が驚いた、という意味のことを言ったそうですが、おかげを頂いてこれなら、助かるだろうというところまでおかげを頂いた。福岡の日吉さんという。お母さんが時々参って来るんです。それに、そういうお届けがあって昨日は、わざわざ東京<から参らして頂いて>すぐ帰らせて頂くというてお礼に出て来ました。
本当にですね。本当に願わなければおられないです。ところが信心が薄い人は例えばそれを、例えば昨日なんかもう、上滝さんが参って来たけれども別に、「帰り久留米まわりますからどうぞよろしく」といった様なことも願わんで、願わないくらいの信心だということです。
だからもう願わずにはおられない一切の、私共はここから立って自分の部屋までいく間でもお願いしていきます。もう本当にあの、それこそ人間のすべてのことそれこそ牛馬のことにいたるまで、と言われるのですから。もういつも願い続け、願っておらなければならない。その願い続けれる、たったそこまで行って参りますから、ちょっとこういうことを致しますから、という事を願わずにはおれないほどしの信心が頂けた時。私は本当に金光様の信心を手厚く頂いておるんだという事がいえると思うんです。
その反対をひっくり返すとです。こんくらいのことはまあ自分ができる。そういう様な横着な心があるから、なら例えば女の方がたくあん一つ切らせて頂くでもです。「たくあんをきざませてもらいます」という心あらばおかげになるです。それを自分が切りよるけん、あら指切ったちゅうごたる事になるわけです。本当に自分がするという事ではなしに、お願いをしてさせて頂くという、行かせて頂くという、こうさせて貰うという事がです。もう綿密にこれは一々、お取次ぎを頂いてここに入ってこんならんという意味じゃないですよ。なるほど、私共が椛目の時代にそりゃもう裏がすぐ道でしたが、もういつ通ったっちゃ柏手がなりよりますと。家族中の者が願わなければおれない事ばっかりだったからです。
どうぞ皆さん自分の信心がどの位の信心かという事を、だから一つ今日ははっきり分かるわけですね。だから、もう本当にあの願わずにはおられないという信心を頂けた時にです、初めて私は実意を持って願えということはそういう事だと思うです。実意ということはいろいろに言われます。金光様が教えられたことは自分の心から横着とわがままを取り除いたら、実意だと教えておられます。だから、自分が行くとか、自分がするとかということはこんな横着な事ないです。お前が自分からしきるならしてみろ、と神様からポンと突き放されたらそれっきりですよね。どこまで行くというてもです。お前が一人で行ききるなら行ってみろと神様からポンと突き放しなさったらそれまでです。それを突き放さずに御守護下さってあるからおかげ頂いとるだけのことです。だから私はね、自分でするという位、横着な事はないと思うです。してみると、なるほど実意ということがはっきりとわかって来るですね。なるほど実意をもって願え、その代わり牛馬の事にいたるまで人間の身の上のこと、もう何なりともよ仰る。金光様の信心の素晴らしいところはこの辺だと思うです。願わずにはおられないそれが実意なんです。こんくらいのことは自分でする、いわば横着ですからそれではいかんです。同時に実意とは、キチッとする事だとも言われております。実意とはキチッとすること。例えば、履物ひとつ脱がせて頂くでも、キチッと揃えて上がると、それが実意だと。これは信心の上にもって参りますと、キチッとした信心それが実意な信心です。そこで私どもがです、そういう例えば願わずにはおられない私どもということをわかる事が結局、無力の私という事を知ることです。だから願わずにはおれんという事になって来るのです。
そこで、最近合楽で言われる信行(心行)という事はです。もういつも心に懸けさせて頂くことですから。おかげでいわば目が小さくなる。目が荒いからおかげがそこから漏れてしまうのです。目ごもう信心さしてもらうということは、だからそのまま実意です。ですから心行です。心に懸かる行。ですからこれはいつでもどこででも出来るわけです。
昨日御祈念の後に、大橋の奥さんが此処でお届けしとります。「先生、今度青年会のパーティーの時に引き当てたクジは、私はなんと心行というクジでした。だから今年はいよいよこれに懸けたいと思います。だからいうならば心行の追求でございます」と言うのです。だから心行ということはどういう事かと追求するという事は、ならばどういう事かというと。それを実行するという事ですよと。それを追求して、こんな事だと詳しくなる事じゃないと。追求する、ああ、ここにも心行をさせて頂くという事があったと。「お母さんあんたが心行したら素晴らしかろうね」と言ったことでした。
本気でその事に取り組んだら。例えばね、お風呂に入ったところが蓋は開けとる、タオルはそこ辺に投げてある。石鹸はこうやってまだ、してある。今までのあなたなら「ちょっと、誰が入ったね。このザマどうしたことね」とそれを言い教える、例えば生き方だってあろうけれども。これからあんたが心行を始めるということになるとね、そういう例えば自分がそれに心に懸からずに、どうした奴じゃろうか。どうしたろくそな奴じゃろうかという様な心じゃなくて、言わば次にまた入る者のために自分が綺麗に整頓もする。洗い流して蓋もしておくという様なあり方が、心行を身につけていく事だよという様な話をしたことでした。ですから、心行ということは私はもうそのまま実意だと思うですね。
心行をしておるという事はもうそのままが実意です。いうなら真心です。実意を持って願えと。
最近、ここでいわゆる今年のいわば合楽の信心というたら、もうそれこそ合楽にご縁を頂いておる信奉者の皆が、それこそすみずみにいたるまで大祓信行に懸けるいう事。これの徹底だと、まあ私は申しとります。ですから、その事をだんだん実行させて頂いてです。心行、後の心の状態がそこから起きて来る心が実意です。もう無条件で祈るとか、無条件でいわば大祓を奏上するということは頼むことはならん。願うことはならんということではないのです。
例えば、今日は何なりとも実意を以て願えと仰せられるですからね。実は願わなければおれない事ばーっかりなのだという事。願えるということがすでに実意だということ。願わないという事は、それは自分で出来ばしするか。出来もせんことを自分でしよると思うとる。これは横着だということ。そこで大祓信行などの心の中がです。もうそれこそ神様と交流した有り難い心。その交流するその心で、牛馬の事にいたるまで、痛い、痒いの事にいたるまで、願わせて頂くのですから神様がお聞き届け下さらんはずがないわけです。そういう意味で信行は素晴らしいでしょう。いや大祓信行ね。
大祓信行による実意、心行による実意。自分の心からわがままと横着を《除かせて》もらう。後に残る心が実意。何でも総てのことを願わずにはおれないということは、自分には何にもでけないという裏付けのあってのことなんです。願わずにはおられない。その心が実意だと。
今日は、そういう事を聞いて頂きました。本当に実意を以て願えと仰せられるのだから。だからいうならば、なら実意がなくってもですよ。今も申しますように、なら上滝さんの例を取りましたし、東京のもう医者が匙を投げた人が助かった。わざわざ東京からお礼にも出て来たという、そういうそのおかげが受けられますけれども、これはお道の信者、信奉者としてです。これはもう当然の事として、大祓信行はいわゆる神様の、いうなら心の糧、神様の糧にならせて頂けるものをお供えさして頂くつもりで心行をと、こう言われておりますが、その心行の後の心の状態を私は今日は実意というふうに聞いて頂いた。
だからそういう実意な心を以て願う。それを今日はあらゆるというか、いくらもの角度から実意ということを聞いて頂いた。そして、それこそ牛馬の事にいたるまで願わずにはおれない信心を本当に頂きたいと思うですね。どうぞ。